銀閣の人
後世にのこるまでを描いた小説だ。
(以下は、ややネタバレ)
自身が将軍となってから応仁の乱も起こり、ますます幕府は弱体化する。
そんな中、義政は自分の才能で、
「治国で負けて、文事で勝つ」つまり、「文化の力で、政治に勝つ」
ことを目指し、祖父である3代将軍義満の建立した金閣に対し、「銀閣」を作ることを志した。
将軍職は息子の義尚(といっても、日野富子とその愛人の天皇の子であることが疑わしい)に譲り、自身は妻と子をおいて御所を出る。
権力は一代限りだが、文化は後世まで残るという信念だ。
寄進や税も望めず、資金がない。
その状態だからこそ、それ以前の「権力者がふんだんに金と人を用いて誇示する」「充足の美」ではなく、世界最初の「不足の美」を実現させようとする。
義政は、その不足の美を「わび」(侘び=わびしい、まちわびる)と名付け、会所の東求堂を「わびの境地の現身とする」と志す。
さらに、時の経過でさらに趣が深くなることを「さび」と表現する。
「わび」は「不足の美。不安な感じ。ひっそりした空気。それゆえにむしろ得られる心の落ち着き」、それに、「時間の変化」「歴史」を足したものを「さび」と定義するのだ。
義政は、邸宅を寺へ寄進し、少しでも戦火を免れようと考えた。
義政の死後はしばらく放置されていたが、ともに作った善阿弥が河原者を集めて草刈りの手入れをしていると、還俗武士・松波新九郎(斎藤道三の父)が勝手に数日泊まりこんでいた。
そこで、松波は東求堂を「身分の差がない、いごごちがいい、そして、戦の密儀もできる」と評した。
それはつまり、「文事」を追求した東求堂が「軍事」の面からも優れていてあらゆる面で「普遍的」であり、「誰の目的にも適う」という証拠だった。
この東求堂の畳・襖・戸障子・違い棚・書院、床の間を備えた様式は、明治以降に広く普及した。
様式だけは広く残り、「書院造」と命名されるに至ったのだ。
この本全体を読んで、わび・さびへのイメージががらりと変わった。
「すごい金閣・地味だけどすごい(らしい)銀閣」といったイメージが払拭された。今でいうデザイン思考のように、人の在り方に着目し、人間中心で様式を作り上げたのだから。
当時最先端の様式が、広く人の求める生活スタイルにマッチしていて後世に残った。
その先駆けが銀閣だったのか、と驚かされた。
それと同時に、印象に残ったのは、「志を持つ人と、持たない人の違い」だ。
富子のように「自身の権力」を広げる人、義政のように将軍となりながらも、政治からは身を引き自身の才能を活かせる「文化」で名を残すことに心血をささげる人がいる一方で、義尚のように、将軍となりながらも、幼いころからなんでも与えられ続け、自らのほしいものが分からないまま、傀儡のまま、酒におぼれて困難から逃げる人もいる。
自ら判断して動くか、動かないか、の違いだと思う。
富子のような政略を立てることも、義政のように文化を極めることも、いずれも困難なことだが、精神的充足は計り知れない。
自身も、困難から目を背けるのではなく、自身がどうしたいかを念頭に置いて行動したいと感じた。
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タイトル:銀閣の人
著者 :門井慶喜
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